2013年12月11日

35年前の感触と背中とアクセシビリティ

僕は52歳になりました。

今日が誕生日。家族が寝静まって仕事も終わりにして、カレンダーに穴を開けてひとりサイダー飲んで祝ってます。

そうか。あれから、もう35年も経ったのですね。

ずっと、アクセシビリティに関わる仕事ばかりしてきました。なぜそこに興味をもったのか、なぜアクセシビリティをやっているのかと聞いてくださる人はあまりいません。もしかしたら、猫背の真ん中に僕には見えない文字で「アクセシビリティ!このやろ!まじめにやらんかい!」などと書いてあって、そのインパクトが強すぎて聞こうと思われないのでしょうか。

うちのかみさんは「あなたはいつもしかめっ面で怖いオーラ出してるから声かけづらいんじゃないの?」といいますが、あなたのほうがよっぽど怖い、とは、口が裂けても言えません。


(これ、かみさんが読まないことをみんなで祈ってください)


京都のいなかの高校に通っていたころです。近くに有名な「与謝の海養護学校」という学校がありました。そこで開催される「交流会」のような催しに参加することになりました。そのあとの出来事が衝撃的で、実はほとんど記憶が飛んでいるのですが、いろいろな学校の合唱があったり、もしかすると吹奏楽の演奏もあったかもしれません。手品はなかったと思います。

ひととおり体育館での催しが終わった後、グランドに出て生徒同士の交流が始まりました。

すると、ひとりの養護学校の先生が、

「はい、あなたはこの子としっかり手をつないでてね」

と言って、ひとりの女の子と手をつながされ、その先生はさっさとどこかに行ってしまいました。

彼女は、重い知的障害のある、でっぷりと太った生徒でした。まったく表情がない。動こうともしない。鼻水垂らしながら僕の右手をしっかり握って、まるでぶら下がっているようでした。手を離さないようにと言われた手前、暑い季節じゃなかったのに、額に汗して「しっかり握っていよう」とだけ思っていました。しかし、17歳の未知体験です。障害の重いその子は少し怖い感じもするし、掌も汗びっしょり。つないだ手から少し鼓動のようなものを感じて、生きている「人」であるということは実感しますが、意思の疎通は全くなし。まるで暖かい石にくくりつけられたような、長くて気の遠くなるような時間でした。

そのあと、どうやってそれが終わって、どんなふうに家まで帰ったのか。全く覚えていません。それほど、あのころの僕には衝撃のできごとでした。でもどうしたことでしょうか。それからというもの、「障害」という文字が目に入ってくるし、ニュースにも敏感になっていきました。社会のありように目を開いていく青葉の季節だったのでしょう。障害のある人と出会ってしっかりと存在を意識した初体験です。

こんなできごとが、僕にとって障害を考える原体験になっています。10代の若さで理屈ではなく感じたこと、感触、温度、そういったものが僕を形づくり、そして35年後に向かってグイっと背中を押したのだと思うのです。

アクセシビリティを語るときに、技術の課題として議論してすませてしまうことが増えています。私自身がそうなっています。だけど、生きている人がいてくらしを営んで、そして、困っていたり苦しんでいたりするということ。ニンゲンが生きるということに直接かかわっているのだということ。そのことを、あの感触を、あの汗を忘れないようにしたいと思うのです。それが、アクセシビリティという技術が解決し、実現しようとしていることだからです。

実はもうひとつ、若かりしころの衝撃体験があります。それについてはどこかの飲み会ででも聞いてください。

そして最後に念を押しておきますが、決して僕のかみさんにはこの記事教えないでくださいね。


これは、Web Accessibility Advent Calendar 2013 のために書きました。